─滋賀・両丹・京都南部の3地区 75教会・伝道所と地域の“宣教”のために─

日本基督教団 京都教区ニュース

THE UNITED CHURCH OF CHRIST IN JAPAN - KYOTO DISTRICT

今総会期 第1号 発行 2021827

 

発行人 今井牧夫 編集人 内山友也

602-0917 京都市上京区一条通室町西入東日野殿町394-2 京都教区事務所/Eメール infouccj-kyoto.com

TEL 075-451-3556FAX 075-451-0630/教区HP http://www.uccj-kyoto.com

 

 

コロナ禍における各教会・伝道所の歩みの多様性(3

 

「あなたを賛美することができるなら」

両丹地区 福知山教会 松田 規

 

 新型コロナウィルスの急速な感染拡大の中で直面した課題は、「礼拝を行ったために、教会員が感染したり、万一クラスターが発生した場合、責任がとれるのか」に集約されたように思います。

 今回の事態は、「礼拝とは何か」「礼拝への出席は何を意味するのか」ということを改めて考える機会になりました。頭の中で様々な思いが堂々巡りするばかりでしたが、「共に神様を礼拝賛美したい」という素直な思いがまさっていました。

 高齢者の多い福知山教会ではオンライン礼拝が困難なことから、執事会(役員会)では「礼拝を休止するか、継続するか」を議論しましたが、意見の葛藤を越えて、「新型コロナを正しく恐れ、課題に対処する」を基本姿勢に、礼拝と聖餐式を継続することとしました。

 そのために、三密回避、消毒・マスクの励行、礼拝時間短縮、祈祷室における聖書研究祈祷会の一時休止などの工夫を重ねましたが、コーヒーバザール・うどん食堂等飲食を伴う活動は中止せざるを得ませんでした。

 そんな中20217月、福知山教会は無牧師となりました。代務者井上勇一牧師の働きかけで5人の牧師が交代で説教をしていただくこととなり1カ月。コロナ禍をものともせず片道4時間かけて来ていただく牧師もあり、共に礼拝することの喜びを与え、励ましてくださる5人の牧師方に心から感謝申し上げます。

 

「いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら。」(詩編 845

 

 

今回の特集にあたって

京都教区ニュース編集部

 今回、コロナ禍における各地の様々な歩みを寄稿いただきました。具体的な対策は、地域状況や取り組み方により、本当に多種多様です。どこかに唯一の正解があるとは考えられません。誰もがそれぞれの場で苦闘しています。そのことを互いにわかちあい、励まし合い、祈り合う目的で掲載をいたします。

 

 

コロナ禍の教会

両丹地区 物部教会 米倉 渚

 

 昨年最初の緊急事態宣言から物部教会では、会員に家庭礼拝をお願いし、元々作っていたfacebookの物部教会ページから礼拝のライブ配信を実験的に行い、インターネットを繋げられない方には週報と前週の礼拝録音CD、礼拝の祈りと説教黙想を書いたプリントを土曜日に配っていました。二度目の緊急事態宣言からは週報配布とネット礼拝のみです。しばらく、こどもの教会や例会等も行えない状況が続きました。しかし緊急事態宣言下でも毎週土曜には牧師館のお隣に住む教会員がお花を活けに来て下さったり、二度目の緊急事態宣言からネット礼拝でも、オルガンの音が聞こえたほうが、配信を見ている方にとって励みになると、オルガニストが毎週礼拝の奏楽をして下さって礼拝が守られました。

 いつも通りの礼拝時間に会堂で礼拝をし、それを配信していましたが、教会の有志の方が会堂に来て共に礼拝を捧げて下さり、それを画面上で見ていた方も「今日は**さんが来られていましたね」とメールやお電話で嬉しそうに知らせて下さいました。ネット礼拝も、怪我をされ教会に来られない方に見て頂けたり、初めて教会の礼拝がどういう事をしているのか配信を通して知る方がいらっしゃったり、思わぬ所で用いられ、教会員も「礼拝には行けないけれど気持ちは近くに感じています」と言って下さる方々の信仰に励まされ、緊急事態宣言解除後も配信は続けて行っています。伝道集会や予定していた修養会も1年間以上開けていない状態です。しかし先に楽しみがあることに希望を持って、私達に今、主が何を求めておられるか、祈り吟味する時を与えられていると受け止めています。

 

 

新型コロナウィルス禍における

状況および対応について

滋賀地区 八日市教会 川上 信

 

 コロナに振り回されて、日本においても、感染者数が日々過去最高数を更新し続けている毎日が続いています。そんな中、大揉めに揉めたオリンピックは無観客という形であれ開催され、連日各競技が熱戦を繰り広げています。その出場選手たちが「こんな状況下でも大会を開催してくださり感謝です」とコメントする場面を見かけることは少なくないです。オリンピック開催に疑問を持ちながらも、日々テレビにかじりついて応援して、相矛盾している自分がいます。様々な場面で、これまでも判断に迷うことはいくつもあったはずなのですが、礼拝の中断、また礼拝の短縮と、これまで経験がなかった判断まで迫られる経験は私にはありませんでした。誤解を恐れず言わせていただくと、今は戦時下と同じような判断を迫られる毎日を過ごしているように思わされています。

 私たちの八日市教会には、付帯施設の保育園がありますが、ちょうど1年前の8月に、クラスターにはならなかったものの感染者を出しました。その対応(消毒や周知、PCR検査など)は、どれも初めての事柄で、感染された方への人権に配慮しながら即座にいくつもの判断が迫られることが多く、正直「なぜこのようなことが起こるのだ」と神に問う毎日でした。それが原因か分かりませんが、感染を恐れた高齢者の信徒を始めとして礼拝出席者が激減し、それに伴い献金額も、教会を維持していくことがままならないまでに落ちこんでいるのが現状です。このことは全国諸教会・伝道所も同じだと察します。

 こんな時に、決して安易に希望を語ることはできませんが、こんな状況下だからこそ、聖書に描かれる様々な苦境に立たされた人たちの声に耳を傾けたいのです。そしてイエスは「誰の立場に立って考え、行動されたのか」、想像力を働かせて聖書を読んでいきたいのです。それがこれからの自分の生き方を見つめなおすことに、そしてこれからの私たちが歩むべき道を神が示してくださることにつながるのだと信じて、今の時を過ごしていきたいです。

 

 

日本バプテスト病院の「今」

日本バプテスト連盟医療団 牧師室

京都南部地区 伏見教会 宮川 裕美子

 

 日本で最初に新型コロナウイルスの患者が報告されたのは2020116日のこと。当院では翌月の2月に「帰国者・接触者外来」、3月に「発熱外来」、5月に「小児科発熱外来」と「コロナ患者専用病棟」が設置され、中等症患者が入院されています。日々の対応として、病院玄関で来院患者に対して発熱外来か一般外来かのトリアージ(選別)が行われます。

 感染防止のため、発熱外来のスタッフは防護服を着用し、院内スタッフは皆、マスクとアイガードの着用が義務付けられています。

 面会は禁止が続いており、ホスピスとNICU(新生児集中治療室)のみ人数・時間の制限付きで、家族に限り行われています。全病棟でオンライン面会が実施されていますが、それは「会う」ことの代りとはならず、患者とご家族の「会えない痛み」が強く感じられます。また、礼拝やコンサート、ボランティアによる活動など、患者が楽しみにされている機会の多くも中止が続いています。

 朝礼は任意でメッセージの原稿を募り、院内配信で行っています。そのメッセージの中で、発熱外来立ち上げのスタッフが当時をこう振り返っていました。「皆が患者さんを中心に考えていた」。また別の時には、病院をたらいまわしにされてようやく受け入れてもらえたと、安堵と感謝の涙を流された患者の話も聞きました。

 スタッフら自身も、厳しい行動制限の中で生活しており、自由に家族と会えない痛みなどを抱えています。しかし、まずは「患者さんのために」、そして「今、できること」を模索して、当院はコロナ禍の「今」を歩んでいます。

 

 

准允・按手を受けた教師の所信表明

 

准允を受けて

京都南部地区 同志社教会 大垣 友行

 

 主の御名を讃美いたします。

 わたしは、去る522日(土)、京都教区の「准允・按手式」において、主のお導きのもと、准允を受けさせていただくことができました。すでに41日より、同志社教会に迎えていただき、伝道者としての働きは始まっていたのですが、准允を機に、正式に教団の教師として、宣教の働きへと送り出していただくことになりました。まずはこのことに、心からの感謝を申し上げたいと思います。

 伝道師としての歩みが始まり、教区・地区の集まりにお招きをいただいて、教会の外の活動についても、これから学ばせていただきたいと思っております。とは言え、新型コロナウイルスの問題で、教会の内外を問わず、活動の規模を縮小せざるを得ない現実を実感させられているところです。

 わたしは2017年のペンテコステに、同志社教会で望月修治牧師から洗礼を授けていただきました。その後、2018年から2019年度にかけて、同教会で神学生として働かせていただきました。この3年間の間に、様々な形で交わりの時を持たせていただいたのは、本当にかけがえのないことだったと思われてなりません。

 感染症対策として、同志社教会では、礼拝のオンラインでの配信を昨年度より継続しています。また今年度からは、オンラインで聖書研究会を試みるなどしております。困難な状況の中にあっても、可能な限り教会としての活動を行ってゆくという思いは、どのような教会であっても共有することのできるものだと思います。

 ですが、その一方で、これまでのように人々が一つの場所に集まって、同じ時を過ごすことが出来ないことへのフラストレーションが鬱積していることも、ひしひしと感じております。

 今後の教会活動が、これまで通りのように営み得るか否か、確実な見通しを立てることは、現時点では極めて難しいと思います。主の備えてくださる希望に支えられながら、今出来ることを模索し、一つ一つ積み重ねてゆくということが、教師として立てられたもののなすべきことであると考えております。

 わたし自身は、まだまだ一歩を踏み出したばかりですし、なし得ることも多くはありません。主のお導きと皆様のお支えとによって、何とかここに立たせていただいている者です。少ない交わりの機会を大切にして、このような自分にも出来ることを見つけられればと思っています。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。主に在りて、ご挨拶申し上げます。

 

 

按手の所信表明

滋賀地区 大津東教会 今井 圭介

 

 大津東教会の主任担任教師に就任して4年が過ぎ、2021522日に京北教会で行われた按手式礼拝にて按手を拝領いたしました。正教師になったことが立派な教師の証しとなるわけではありません。道半ば、いや、まだまだ駆け出しであることを自覚しています。正教師となったことにあぐらを掻くのではなく、日々研鑽を積んでいきたいと思っています。その一方で、正教師になったことで、これまでより一層の期待と責任を負うことも事実です。駆け出しであることを言い訳とせず、誠意をもってその期待に応えていきたいと思います。

 4年前の准允式では、「教会と聖書に真摯に向き合っていきたい」という所信表明をいたしました。この4年間がどれだけその決意に忠実であったかと問われると、至らぬ点ばかりで、数多くの方々の助けを得て、なんとかやってこれたというのが実際のところです。「教会と聖書に真摯に向き合っていきたい」という決意は、今も持ち続けていますし、教師として立てられている限りずっと、この決意を胸に仕えていきたいと考えています。

 さて、大津東教会が現在目標としていることをご紹介させていただきます。大津東教会にはとても大きな庭があります。近隣はほとんどが住宅地になってしまいましたが、教会の庭には今もたくさんの木々があり、四季折々の姿を見せてくれます。この豊かで広い土地を有効活用することが、大津東教会のこれからの課題です。地域に根差した福音伝道のために、社会奉仕のために、また、教会の経済的な面を補うためにも、教会の付帯事業として、児童福祉施設の立ち上げを検討しています。新型コロナウィルスの影響でなかなか計画通りに行かず、もどかしい日々ではありますが、焦っても仕方ありません。教会員の方々と共に祈りつつ、少しずつ前に進めていくことができればと思っています。皆様のお祈りにも加えて下さると幸いです。

 大津東教会の皆さまには温かく接していただき、日々祈りと励ましをもって助けていただいていることに感謝いたします。また、私が補教師であった4年間、聖餐式を中心に教会を支えてくださった関雅人牧師と、日曜日の朝に関牧師を快く送り出してくださった安曇川伝道所の皆さまに感謝いたします。本当に多くの方々のお支えがあって、今私は教師として立てられています。そのことを神様に感謝し、また、主の御跡をたどる者とならせてくださいと祈りつつ、所信表明とさせていただきます。

 

 

按手の所信表明

京都南部地区 京都教会 西原 ももこ

同志社国際中学校・高等学校 教務教師

 

 過日522日に、京都教区総会決議に基づく按手を会場京北教会で受けました。今年度からは、神学生の頃からお世話になっております京都教会の担任教師とともに、教務教師としての務めが与えられました。

 伝道師としての務めが与えられた3年前は、修士論文と教師検定試験があり、年度末にそれが一段落したときは、「やっと解放される!」と安堵したのを昨日のことのように覚えています。そして、今回の正教師検定試験では、その時よりもさらに自らの召命感を問われました。自分のような者が神に仕える資格があるのか、日本基督教団の教師になるとはどのような意味を持つのかを今まで以上に考えさせられた時でした。何度も挫けそうになりながらも、入牧師ご夫妻をはじめ、多くの先輩方、また同期と共に乗り越えた試験だったと思います。私一人の力では決して乗り越えることができませんでした。多くの方に支えていただくことを通して、神の守りの中にあることを再確認させていただいた時でした。感謝いたします。

 今年度からは府内にあります、同志社国際中学校・高等学校で宗教科の教員としての道が与えられました。本校は、非常に自由な学校で、さまざまな背景を持った生徒たちが共に生活をしています。聖書の授業を通して、何名かの生徒からは「自分の考えや主張は他の人と同じだと思っていたけれども、授業を通してさまざまな意見があることに気づかされました。それを否定や完全に同意するのではなくて、理解することも大切だということを学びました。」というコメントをいただきました。何事においてもこの考え方は必要であると思うのと同時に、非常に難しいことであるなと身に染みて感じることがあります。

 これから牧師としての歩みを与えられる中で、さまざまな出来事に遭遇することと思います。そんな時でも学校の中で、そして教区・教会の中で共に支え合いながら日々を過ごせていければと願っています。牧師としてのスタートは1年目です。これからも皆さんに支えていただきながら、主に仕えていきたいと思います。京都教区の皆さま、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

所信表明

京都南部地区 城陽教会 松田 祈

 

 この度、城陽教会より担任教師として立てられましたこと、また按手を受けましたことを感謝するとともに、おそれを持って受け止めております。

 私は2018年より3年間、京都教会にて担任教師として仕えました。日々、教会や付帯施設である児童館に仕える中で、このような欠けだらけの器を多くの人たちが祈りをもってお支えくださいました。子どもの教会の子どもたちと遊び、青年会で語り合い、礼拝において賛美の歌を歌い、また御言葉を聞き、児童館の子どもたちと過ごす中で、その一つ一つにおいて神から与えられた命の恵みを感じました。遊び、語り合い、祈り、歌い、生き、私たちは、このようにお互いの命を祝福し合えるのだと思いました。

 京都教会にて天上に送った方々の葬儀においても、命の恵みということを感じさせられました。葬儀は深い悲しみの時でありますが、主任の入治彦牧師は「キリスト教の死に対する考えをあえて一言で言うならば、死とは終わりではなく神のもとにある新しい命のはじまりである」と語られました。私たちの命は神が生かしてくださる、それがキリストの福音であり、その命を語り大切にすることが教会の使命のひとつではないかと思わされたのです。

 また昨年、命について深く考える出来事があり、その時に「命のことはもちろん人間も頑張るけど、神様の働きに委ねる部分も大きいから、神様と一緒に命を大切にしてください」とお祈りしてくださった方がいました。人間の頑張りを超えたところで神が共にいてくださるということが、大きな励ましと慰めになることを、身をもって感じました。

 今、私たちの生きている世は、様々な人間の悪意に満ち、人を命の源から遠ざけ、命をないがしろにしてしまう厳しい状況にあります。現実を前に虚しさを感じ、無力感に陥ってしまうことも多くあります。しかし、だからこそ神から与えられる命の恵みというキリストの福音を、教会において語り続け、命を祝福する歩みをなしていくという課題が与えられているように思います。

 京都教区において、教会・伝道所、付帯施設あるいは関係団体である幼稚園、保育園、児童館、社会福祉施設、キリスト教主義学校、病院など多くの場所でキリストの命と福音が証しされ続けていることを覚えます。私も祈りと共にそれらの働きに連なり、城陽教会の皆様と共にキリストの命と福音を証しして参りたいと願っております。

 

 

按手を授けられて

京都南部地区 平安教会 山下 毅

 

 この度、按手を授けられ心より感謝いたします。主の豊かな導きがあることを覚えます。主のみ旨は何か、を謙虚に祈り、全力を尽くします。

 私ごとですが、一時、信仰の悩み、迷いが深い時がありました。その脱出のために、多大の時、迷いの時を費やしました。ある時わたしの人生を揺るがす大きな出来事に出会い、暗い自分の人生を克服するために、聖書を本当に真剣に学んでみようと思いました。その時点では、キリスト者の方々が、「私は救われている」と語られている言葉に、ただただ、遥かに遠い存在であり、人生には救いは「無い」と思っていました。

 教会の礼拝には毎週出席させていただいていましたが、勤労者アシュラム(仕事を離れ、瞑想の時を持つ、の意。インドの言葉)に参加させていただきました。

 アシュラムでは、故田中恒夫牧師から、デボーションの持ち方、霊操の書物、聖書を読む時、次のように祈ることを教えて頂きました。本当に単純なことと思われますが、基本だと思っています。「御在天の父なる神様、このデボーションの時を与えられ心から感謝します。私の罪、咎をお許しください。復活されたイエス・キリストが私の魂に語りかけて下さい。語りかけが聖霊豊かなものでありますように、聖霊を与えて下さい。」

 この聖霊をいただいて、デボーションの時を持つのです。この30年間、海外出張、地方都市への出張の時も、欠かさず実行してきました。自分の魂が少しずつ日々変えられてゆく経験をしました。―朝の30分の「霊操」の時を持つことが大切なことだと本当に思い現在も続けています。

 Ⅰコリント123節に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主なり』ということはできない。」この言葉は真実です。聖霊の力が与えられ、聖書を読まないと聖書の言葉は一切わかりません。―キリストに生かされる、意味がわかりました。神さまを中心に生きるのです。神さまが、私を生かして下さり、神の栄光を現すために、生きるのです。年を取っていますが、こんな私如き者にも、主が憐れんで下さったことを感謝して、過去の苦い経験を糧として、自分の全身全霊を主にささげる決意です。

 

 

教区 新任教師の紹介

 

わたし待つわ

同志社中学校・高等学校 教務教師 川江 友二

 

 私の歩みは、趣味で行っている「燻製作り」のようなものだと感じています。「燻製ベーコン」は、まず塩漬けするのに1週間かけます。その後、塩抜きと乾燥に丸1日から2日間。そして木に火をともし燻すのに約3時間。しかし、更にその後、冷蔵庫で乾燥・脱水させること1日から2日。ようやく美味しく食べられるようになるまで10日間ほどを要します。

 今年度から、教会・保育現場から学校現場での働きとなりました。そもそも、牧師になるまでも、悩み惑いながら決断に至った私でしたが、学生時代、若くして急逝された恩師(西村篤さん)の熱意と信仰、週毎に訪問させていただいたHIV陽性者の方の叫びと祈り、かけがえのない出会いの数々によって、牧会の道へ導かれました。自分が今もこの現場に留まり、腐らずにいられるのも、こうした方々が「地の塩」として私の中に留まり続けてくださっているからだと感じています。そして、これまでの出会いと働きの中で学び教えられてきたことを、学生たちに言葉で伝える日々は、その塩を、味わえる濃さに溶かす作業のようです。

 学生たちが、どのように私の言葉を受け止めてくれているのか、答えはまだ分かりません。しかし、学生たちがこれから視点を広げ、変え、自らが学び、人と出会い、他者との交わりの中で生きていく、その未来への喜びを、火をともし燻して待つ時と同じように待ちたいと考えています。自分自身も、神さまにそのように待っていただいいている者だと思うからです。

 燻製作りの最大の醍醐味は、出来上がった燻製を、皆と分かち合うことができることです。イエスがパンを分かち合ってくださるような喜びを、何度も与えられてきたことを思い出します。パンと言葉、喜び、笑い、悲しみ、苦しみ、痛みを分かつ人生の中に、イエスがいてくださることを信じ、わずかばかりでもイエスの香りを放つ者でありたいと願います。

 

 

〈原点〉からの再始動

巡回教師 堀江 有里

 

 今年度から巡回教師に就任しました。よろしくお願いいたします。

 これまで、1994年に「信仰とセクシュアリティを考えるキリスト者の会(ECQA)」を仲間たちと立ち上げ、日本のキリスト教界ではじめて性的マイノリティの課題を担う働きを続けてきました。きっかけとなったのは京都教区で最初の巡回教師の任にあたられた故・榎本てる子牧師のネットワークでした。

 昨春までの3年間、神奈川教区の教会で主任担任教師の働きのなかで問われたのは、小規模伝道所の経済的困難や、教会の群れから「はじき出される」人たちの居場所探しのなかで蓄積される「教会」や「牧師」への期待にどう寄り添えるのか、でした。同時に他教区に移動して、わたし自身「レズビアン」として自己表明し、活動が継続できたのは京都教区が出発点であったからだと痛感しました。

 京都教区に戻り、いまは性差別問題特設委員会、「教会と社会」特設委員会にも参加しています。無牧師の教区内教会や他教区・他教派の教会礼拝のほか、大学でのチャペル・アワーでメッセージを担当する機会をいただいています。また、首都圏や近畿圏で大学非常勤講師(ジェンダー論、社会学、宗教研究など)や京都の研究所での勤務、行政や民間の電話相談員として生計をたてています。オンラインが中心ですが、キリスト教とジェンダー/セクシュアリティや天皇制などをテーマとした講演にもお声がけいただいています。

 これらの経験をも活かしつつ、一つひとつの場を大切にしつつ、〈原点〉を思い起こしつつ、宣教の課題をこれからも担っていきます。そのうえで、この京都教区でなにがしかの貢献ができるように歩んでいきたいと考えています。よろしくお願いいたします。

 

 

主にあって、ご挨拶申し上げます

京都南部地区 洛陽教会 松下 道成

 

 コロナ禍で、洛陽教会赴任当初から礼拝の映像配信を併用しています。その映像には、讃美歌を歌う私の声が入っていますが、改めて自分の声を聞くと、何と「下手だなー」と思います。以前の教会で、危篤になった人をお訪ねして、傍に座って何曲も讃美歌を歌いました。家族は下の階でいましたが、上の様子を無線で聞いていたそうです。その方が亡くなり、しばらくして家族の方が、あの歌声は、まるで天使の声でしたというのです。周りでそれを聞いていた人が「是非聞かせて欲しい」とあまりにもしつこいので、歌うと、実に変な顔をしていました。

 信仰は実に不思議です。神の働きは私たちの思いを遥かに越えているからです。これは上手くいった、これは上手くいかないという思いに、私たちの思いは占められますが、神の御心の前には、どんなにちっぽけなことかと思わされます。今年で131年の歴史を数える、洛陽教会の歴史や伝統の前に、偉大な先輩牧者を前に、震えてくるほどに、恐れと己の足りなさを覚えますが、その洛陽教会の歩みも、神の御働きの前にあっては、取るに足りないものと言えるのです。かつて洛陽教会の故・府上征三牧師は「私たちが心すべきことは、まず、私たち自身が、神自らなされる御業に「ああ、なんと麗しいことか」と感動させられ、心揺さぶられ、私たちの小さな足を用いて「福音の担い手」としていただけるかです」と言っています。

 私は、Ⅱコリント514の「なぜなら、キリストの愛が私たちを駆り立てているからです」という聖句が好きです。パウロはすべての思いを「キリストの愛」によって「占められている」と言うのです。ここに、失敗ばかりで、勇気がなく、小さく、怖がりな私が、翼を与えられ鳥の如くに舞い上がる姿を思い描かされます。その翼はキリストの愛です。我々がまず心に思うことは、このキリストへの愛です。だから教会を愛することです。このことがなければ、京都で教会の皆さんと会うこともなかったのです。しかし、逆に、このことさえあるならば、私たちは、そして洛陽教会は、主にあっていかに多くの素晴らしい友に出会い、支えられてきたかを、そして今も与えられ、これからも与えられるかを知らされます。今、この歩みの中に、招き加えていただいたことを、ただただ喜び感謝いたします。

 

 

城陽教会に赴任して

京都南部地区 城陽教会 松田 直樹

 

 今年度より城陽教会の牧師に就任しました、松田直樹です。この城陽教会での牧会が私にとって初めての主任担任教師としての働きですので、色々と未知のことや手探りの事も多いですが、日々城陽教会の方々に助けていただき、また家族共々暖かく受け入れていただき、希望を持って新たな生活を始めることができました。教区との関わりで言えば私は2016年度、2020年度にも京都教会の副牧師として京都教区にお世話になってきました。またそれ以前にも青年の修養会などの交わりに加えていただくこともありました。今年度からは、また新たな形での教区とのかかわりとなるかと思います。

 前任地の京都教会は元来、食べる教会とも呼ばれるほど会食を大切にしてきましたが、城陽教会も食事を交わりの機会として大切にしてきた教会であると伺っています。キリスト教の歴史をみても愛餐はキリスト者の交わりの機会として大切なものでした。しかし、残念ながらこのコロナ禍によっていつものような交わりが難しい状況が続いてきました。私が着任した4月には愛餐会を行うことができましたが、その後の感染拡大に伴い、再び会食を中止としました。ワクチンの接種も少しずつ進んできていますが、また新たな感染の波も見えている中、早くこの災いが退けられることを願っています。教区においても、教区総会が書面で開催されるなど大勢が集まることが難しい状況が今年度も続いており、しばらくは、かつてのような教区の交わりの機会を持つことも難しいことと思います。城陽教会の就任式についてもまだ行えていません。しかし同じ教区に連なる者として、皆様との交わりを深めていけることを願っています。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

ただの人

滋賀地区 草津教会 横田 法子

 

 大阪教区、北海教区を経て、2014年度から京都教区。今年度から草津教会にお仲間入りした「新任」ですが、京都教区7年目にして自己紹介は気恥ずかしいです。

 最初に赴いた大阪の教会1年目の出来事。主任牧師が夏休暇で九州滞在中、教会員が天に召されました。出入りの葬儀業者が教会に来て、九州滞在中の主任牧師と電話で打ち合わせ。業者の人が「えっ!?」と大きな声を出し、私の顔を見るので何事かと思ったら、受話器を渡されました。主任牧師は戻れないからと納棺式と前夜式を20代のひよっ子の私に託しました。業者さんの「えっ!?」(まさかっ)と、主任牧師の「任せます」(当然)の響きは対象的でした。牧会者として任職された重みと責任を実感した出来事でした。年を経ても未熟です。穴があったら入りたいことだらけ。けれども、どんなに乏しい器でも、神さまが僕として用いてくださるなら、それは神さまのみわざとなる。そう信じながら歩んできました。同時にわたしという器自体には権威なし、という感覚を大切にしています。牧師だと知られる前後で相手の言葉遣いや態度が翻ることがあります。何も成していないのに「牧師」という属性のみで対応を変えられてしまうのは私にはとても心地悪い。けれどもそのたびに「任せます」と言われた牧会1年目の出来事を思い出してきました。神さまの前では信徒も教職も等しく「ただの人」という感覚を失わず、按手された意味をしっかりと受けとめ、与えられた群れに仕える者で在りたいと思います。教区においては「不登校・ひきこもりの青少年や家族と共に歩む特設委員会」の働きに携わっています。これからも良きお交わりをお願いします。

 

 

主題「コロナ時代の宣教的課題と韓日教会の協力」

韓國基督教長老會大田老會・日本基督教団京都教区

―交流23周年― 宣教協議会 報告

滋賀地区 膳所教会 大山 修司

 

 621日(月)14001700に、韓國基督教長老會大田(テジョン)老會と京都教区のオンラインによる宣教協議会を開催しました。集合会場は室町教会と大田老會事務室でしたが、個別にZoom参加される方も多く、大田老會側13名、京都教区側26名の合計39名の参加でした。

 開会礼拝では、大田老會長の姜明中(カン・ミョンジュン)さんが「共にいていい人々」と題してメッセージを語って下さいました。大田老會と京都教区を神さまが呼んでくださった理由は何でしょうかと問いかけられ、それは「歴史の中でどんな状況が迫り来ても、信仰によって打ち克てるように互いに励まし合うということ」のためであると明確に告げられました。

 発題は、「コロナ時代の宣教的課題と韓日教会の協力」のテーマで大田老會国際協力宣教委員専門委員の崔亨黙(チェ・ヒョンムク)さんと京都教区議長今井牧夫さんによってなされ、その後、質疑応答と全体協議の時間を持ちました。

 まず崔亨黙さんは、コロナ19COVID-19の韓国表記)の状況と韓国教会の対応について触れながら宣教の課題について明確にされました。この危機は人類がそもそも直面していた生態的危機、気候危機、社会的危機とつながっており、これを宣教の課題として挙げるならば、①創造世界の保全、生態的生を具現すること ②コロナ19によって加速している社会経済的不平等を克服すること ③差別と嫌悪に対抗し克服すること、教会内の差別と闘うこと ④政治的民主主義の進展を図ること ⑤草の根民主主義によって具体的で日常的な生活のつながり、生活共同体をつくることについて語られました。

 また今井牧夫さんは京都教区のコロナ対応のアンケートなどをもとに教区内諸教会の宣教の課題について述べられました。京都教区は高齢化と会員数の減少、財政の縮小が進んでおり、コロナ問題はこの傾向をより強め、時計の針の速度を早める役割をしていると表現されました。礼拝出席が減少する中、・財政の低下や宣教力の低下、そしてコロナ禍における教会と個人生活の保身の意識から、社会的課題への意識の低下や隣人愛の意識の低下といった影響が出てくるのではないかと懸念されています。そうした中にあって、聖書の読み直しや、歴史の学びの継続によって、ヘイトや差別に抵抗していくこと、また「各個教会主義」から「協働性」に向けて踏み出していくことが課題だと述べられました。また大田老會においても「集まること」が難しくなっており、各教会負担金を30%削減したそうです。

 崔さんの発題で提案された一つの方向は“集まる教会”から“散らばる教会”に姿を変えていくことでありました。ここにはもちろんいろいろな意味が込められていて、韓国の大教会の権威主義や保守キリスト教勢力への批判の意味もあることでしょう。また今、集まることが難しい中にあっても、教会が世に開かれた地域共同体を作ることが課題とのことです。

 また全体協議での一つの報告として、水口教会の谷村德幸さんは、子どもたちが学校でマスク着用を強いられ、会話も制限され抑えつけられている管理教育に対して子どもの教会、また教会は解放区にならなければならないとの意見を述べられました。自由でのびのびした場を用意することで、集う子どもたちが倍に増えたことも報告されました。

 相互の質問や意見が活発に出され、3時間という時間も短く感じるほど内容が濃く、また終始なごやかな会となりました。なお、2名の発題を直接読みたい方は今井牧夫さん(京北教会)にご連絡を。

 崔亨黙さんの発題にもありましたが、「今日わたしたちが直面している危機は、資本主義的大量生産と大量消費体制から発生したものであり」「生態的危機と社会的危機の様相として現れている」のであり、文明の転換が要請されていると言えます。こうしたことを考えるならば、もちろんわたしたちはコロナが早く去ってほしいと願うものではありますが、ただもとの生活に戻ればいいというものではないでしょう。大きな決意をもって生活のあり方や、社会の仕組みそのものを問うて行くべき重大な課題を含んでいると考えさせられました。

 

 

リレー連載コラム第11

―教会とセクシュアル・ハラスメント問題―

知ることの大切さ

セクシュアル・ハラスメント問題小委員会・石山教会 須賀 工

 

 セクシュアル・ハラスメント問題小委員会によって作成されたリーフレット「教会のセクシュアル・ハラスメント―その克服のために―」が発行されて、早くも1年が過ぎようとしています。このリーフレットが、どこまで活用され、教会の健全な形成のために、いかように用いられているかは、分かりませんが、これからも、この賜物が豊かに用いられ、これからの苦しみや悲しみを生まない力となることを、お祈り申し上げるものです。

 私は、現在、教区教師部からの派遣という形で、当委員会に関わらせていただいていますが、当委員会に関わることを通して、改めて、自分の無知を痛感させられたように思います。「ハラスメント」という言葉は、勿論、それまでにも、頻繁に聞いて、知っていたつもりでありますが、被害にあわれた方々の痛みや悲しみを、本当に理解していたかどうかと問われるならば、真に恥ずかしいものであります。

 正直な話、最初は、教会とハラスメント問題は、関係がないものであると感じていました。しかし、委員会に参加させていただくことを通して、また、諸研修を通して、初めて「教会だからこそ起り得る」ハラスメント問題があることを知り、目が開かれたような思いがありました。また、その思いと共に、自分を省みる機会も与えられたように思います。

 知らず知らずのうちに、自分も加害者の側に立っているのではないか。自分も、誰かを傷つけていないか。そのように自問する機会が与えられたのです。それは、同時に、自分自身の正当性を問う機会になりました。今まで、自分が当たり前のようにしてきたことが正しかったのか、という問いです。これもまた、自分にとっては、必要な機会であったように思います。

 この委員会を通して、自らを省みる機会が与えられ、打ち砕かれるような経験が出来たのも、実際に、自分が、そこに身を置き、現実を知ることによることなくしては、まず、あり得なかったことであると感じています。大切なことは、主体的に関心を持ち続けることであると思います。そして、そこに起きている現実を、しっかりと知り、自分自身に落とし込むことであると言えるのです。自分自身の正しさに固執するのではなく、極端な言葉で言うならば、いつでも、自分自身を疑うということが大切だと思うのです。

 そして、また、自分を中心に物事を思考するのではなく、目の前にいる人のことを考えながら、必要な距離感をとって対話や関係を築くことも大切です。そのためにも、やはり、その人を知る、ということが大切であるともいえるのです。自分の生活を省みるならば、「知らなかった」という場面が、よくあることを思い出されます。「知らない」で許される範囲であるならば幸いですが、そうでないならば、大変なことであります。ちゃんと知ること、関心を持つこと。その段階を経て、対話を始めていく、関係を築いていく。そのことを大切にできる人間でありたいと感じるものです。

 

 

コロナ禍での教区運営の報告

京都教区総会議長・京北教会 今井 牧夫

 

 京都教区2021年度定期総会はコロナ禍の悪化から、やむをえず4月臨時常置委員会決定に基づき書面開催にしました。議決権行使書の締切を512日として正議員141名中108名の行使書で総会が成立し、教区三役・常置委員の任期1年延長や、各教会・伝道所2021年度教区負担金7%削減の予算案など15議案を可決。准允・按手式は522日に会場京北教会で公開実施し、受領者の所信表明は教区ニュース今号掲載に代えました。総会後は常置委員会を5月、7月に時間短縮・陪席者限定で開催しました。

 教区と別に教団常議員会では、今年10月に予定した教団総会の1年延期を決定しました。

 なお、教団年金局の理事に当教区から谷本聰子さん(今津教会)選出を7月決定しました。今まで長年奉仕された奥野カネコ前理事(膳所教会)に感謝し、谷本新理事への御加祷を皆様に願います。

 

 

編集後記

 今年も夏の諸行事は中止が相次いだ。新型コロナウィルスの終息はまだまだ見えず、いつまでこの状況が続くのかと落胆する思いである。しかし、この教区ニュースに寄せられた記事を読んでいると、この同じ痛みを分かち合っている友がいることに励ましと慰めの気持ちが強められる。また、このことに気付かされるとき、それぞれの教会は「孤立=個立」しているのではなく、イエス・キリストの命によって様々な思いを共有し、連帯し合うことができる恵みが与えられていることを教えられる。私たちはこの時にあって、「キリストの帯」に結ばれていることに一人一人が感謝を持って受け止める者でありたい。そして、この教区ニュースもその一助となることをキリストに祈りながら、励ましと慰めが届けられることを切に願う。今号にご寄稿下さった皆様に心より感謝いたします。(U